敬語は誰がために。

 Aこの町は映画館がたくさんありまして
これからいくと時間があまるんですよね

B 別にいいじゃんやってる時間にあわせれば

A このセットでいいですか?

B そんなに高くなければいいよ。適当で!

B 別になんでもいいよ、早くたのめよ

A はい。

問題ですこの会話はどのような人間の会話でしょうか?









答えは
 
 私と同じくらいの年齢の父親と小学3年生位の息子さんとの会話です

ピアノのレッスンの帰り新宿二丁目の日高で出来事でした。

第二問、上記のA,Bどちらが父親でしょうか?



答えはAです。



人間が生を受けて、絶対無比に敬う対象は、親である、そして、祖先である

世俗的な敬いは生きる過程での価値観や技術、観念等 自己の内心により決定される

親子の絆が断絶していたり、異常な状況化に環境での関係は別として、不偏的に親に敬愛心を自然に持つものである。

なぜなら、自分の存在の根本であるから。

人間の資質的な問題ではなく、根本的な生まれ出る、絶対要因なのだから

親子の絆が成立し、家庭を成している家庭では自然に子は親を尊敬するものである。

敬語というものは、そういう条件化に使われるものである。

昔のように、父上様 母上様という要求はしないが、

子を育てる上で言葉とコミュニケーションツールを大切にしないと

根本的な血のつながりや家族という関係が崩壊してしまう。

最近は自分の子供に対して君やさんをつけて呼ぶ親が多いという



世俗的に日常敬語を誰にでも使うの事を否定するつもりはない

職場や人間関係の位置づけを己で定義するのが、言葉なのだから

しかし、親が、子供に対して敬語を使用し、子供が親に対して不遜な言葉を使うのは、
あまり良い事ではないと思う


家族のコミュニケーションとして、敬語を使用するなら、子供にその敬語の使用を推奨し日常的に体現させるべきである

なぜ親が子に対して卑屈に態度をとらなければならないのか

そういった言葉の関係で育つ子供はどのような価値観を持ち育つのだろうか

子供にとって、親は生きる為の道具として捉えてしまうのではないのだろうか?

もう一度敬語というものはなんなのかを考えるべきであり

親と子の絆を再考する必要があるのではないか?