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キハーナって男は理解できます

先日、
SPAC秋のシーズン2008「ドン・キホーテ」を観てまいりました。

実は私は演劇としてドン・キホーテは一度も見た事がない。
 かつて、子供の頃に聞いた話と、BS海外傑作ドラマ特選ドン・キホーテを観た程度である、そのとき抱いた感想は偉く重いなーといいた感じでした。

なので、今回のドン・キホーテは不思議な切り口でした。

強く感じたのは、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ は終始、アロンソ・キハーナとして写りました。

そして、キハーナは、セント・オブ・ウーマンのフランクスレイド そのものであるなとおもいました。

もっとも、セント・オブ・ウーマンは現代版ドン・キホーテなのですが
 サンチョはチャーリーである。

横路にそれました。

つまり、今回私が、目にしたドン・キホーテは 「キハーナという男の物語」と思いました。
私がとってもきにいったのは
キハーナは「目が覚めた」といい サンチョに甲冑を取るように命じるシーンでした。

騎士道や正義を希求して、初めから虚構であっるとキハーナは、自分のあるべき真理を体現してみたかったのである
そして、その理解者を求めていたのである。

そして、どうしても、ドン・キホーテでなければならないというように駆り立てる、もうひとつの大きな要因は
「老い」「死」なんじゃないのかな

これまで、騎士道を希求して生きてきた男にとって、「老い」と「死」は耐え難い恐怖だと思う、

だから、敢えて狂人としてのドン・キホーテに執着しなければならなかったのかもしれない。

だから、アルドンサ・ロレンソ=ドゥルシネーアには、その純真さを理解してもらいたかったのだろうと思う。

でも、キハーナは。「理解してもらえない」という事になれきってしまっている。

「やっぱり伝わらない」「だれも理解してくれない」「私の思いは意味のないもの」そうやって解釈してしまうんだな

だからキハーナにとって、騎士道というのは、其処をやせ我慢するいい口実なのであったと思います

そして、彼は最後に自分の遍歴を夢であったとして、遍歴の旅を閉じてしまう

なんか、むなしいのである。

キハーナにとってのドン・キホーテは希求した騎士道であったのだろうか

なんて、考えてしまいました。