【マラソン エッセイ2】日本人の自由とは?

日本人が自由を謳歌するそれは無理だと思う。
戦後日本の憲法は様々な自由を列挙した
日本国憲法の中に記されている自由は実に10箇所に及ぶ
・わが国全土にわたつて 自由のもたらす恵沢を確保し、
・個人として尊重される。生命、 自由及び幸福追求に対する国民の権利については、

・第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
ならない。
・第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

・結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
・検閲
ない限り、居住、移転及び職業選択の自由 を有する。
・何人も、外国
外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
・学問の自由は、これを保障する。
・第24
定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せ
する
・自由獲得の努力の成果であつて、
国民にこれだけ訴求する自由というのはそもそもの根拠はなんなのであろうか?

スピノザの社会契約概念の根本自然権なのであろうか、ミルの自由論、つまり消極的自由、政府がどの程度国民の自

由を制限しえるか、或いは、国民がどれだけ自由を享受しているかという問題

憲法で規定する以上、日本人として自由はいったいなんであるかを考えなくてはならない。

日本人の多くが抱いている自由とは、無制限な自由 指向性も自由であり、思考も自由なのである。
しかし、本来の自由というのは、自然に生き続ける権利から多岐に派生するが、多くの社会的規律の中での
個人が幸福を追求しえるある一定の自由度の許容範囲が存在するという事なのではないだろうか?

最近の雇用問題を鑑みて、この自由と言うものを考察してみると。
ここに大きな問題があるのではないだろうか
つまり、一体職業選択の自由とは一体なんなのであろうか?
思想、良心の自由を享受し、信教の自由も保障され学問の自由も保障されている
しかし、職業選択の自由という概念は、日本国憲法において次元の違う位置づけではないだろうか?

日本国民が、自由及び幸福の追求権は権利として確かにある
しかし、それは幸福の追求の手段であってかなり人生のあり方によって制限される選択なのではないだろうか?

・たとえば、学問もスポーツも文化にも触れる事無く、一定の教育もうけていなく、社会的モラルの欠如したものが
「俺は官僚になる」といってもそれは無理
・同様に「俺は政治家になる」これは大いに可能なのである。
・継ぐべき家業や家督があるのに、適当なサラリーマンになってしまう
・将来の夢を希求して、過大な投資をして、大学や、専門学校でまなんだが、その後の進路は全くの無関係

職業というのは、成長の過程で此処の資質が醸成され、その延長上に社会に貢献し、資産的、或いは社会的利益を獲

得する手段なのである。

即ち、幸福を追求するために、様々な自由を享受し、己が利益を得る手段であるべきものなのであると考える

健全で大きな志を持ち、自らの自由意志で学問を選択し、その糧をもち官僚になる
同様に医者になるものもあるだろう、専門的能力の職業に就くものもあるであろう、農業、畜産、水産に従事するも

のもあるだろう、

いづれにしても、なんらか人生で得た資質によって、職業を選択するのであろう

そもそも、学問や社会規範に反抗的な人間が職業選択の自由を享受する資格はないと思う

仕事に就くためには己の資質をもっていなければならない。

社会人というのは職業を持っていなくてはならない。

社会人になって、自分探しをしているようでは、まずいと思う

仕事をして納税をして子供に教育を与え、選挙に参加しえる国民でなくてはならないのであると率直に思っている

日本人の成人が20歳というならば、20歳までに己の職業の資質をわきまえてなくてはならないのではないだろうか?

たしかに、職業の選択の自由は個人に委ねられる。

だけど、その裁量は自分によって制限されるのであると思う

日本は資源も食料も乏しいのである、人間そのものが資源とならなければならないそんな国であると思う

この国が、余りにも無責任な自由を高らかに謳い続ける限り、日本国民の幸福の追求はできないのではないか?

日本人ひとり一人の自立と共助の社会フレームが必用なのではないだろうか?