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平和を希求すなら 原理主義とは?

 宗教には興味がある。
しかし宗教が根本となり平和は危ぶまれている、いつの時代もです

しかし、本来、宗教にも寿命があるはずです マニ教などのように滅してしまった宗教があるように。

しかし、世界四大宗教となるものは、異常な偏見と執着により、科学が発展しようとも、哲学者が無神論を説いたとしても生き延びている

そして、其れを、尊守しているものたちは、時代の中で、強大な力をもった偏見が、其れを支配している。

例えば、キリスト教の現在の聖典はアタナシオス(紀元295〜372)によって現在の聖書にのっている。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4
福音書、使徒行伝、パウロの13
の手紙、ペテロの第1の手紙、ヨハネの黙示録に集約され、
ヤコブ原福音書 トマスによるイエスの幼時物語 ペテロ福音書 ニコデモ福音書(ピラト行伝)ヨハネ行伝 ペテロ行伝 パウロ行伝(パウロとテクラの行伝) アンデレ行伝 、使徒ユダ・トマスの行伝 セネカとパウロの往復書簡 パウロの黙示録 マリアの福音書 、ユダの福音書、ビスティス・ソフィア、マニ教詩篇は「アポクリファ」と名づけこれを「異端の虚構」、「汚れなき者を欺くもの」として排除してきた。

そして、制御された、聖典はローマ帝国によって、遵守され、中世には絶対思想となり、敬虔なクリスチャンの絶対的モラルとして成立した、

それは、歴史的研究によって発掘され、新しい発見がされていても、経験なクリスチャンにとっては異端な思想なのである。

しかし、知れば知るほど、宗教は根本を辿れば一つになっていく、
最初に戻るが、キリスト教とイスラム教が、ユダヤ教から派生しその根本はマニ教であるという、旧約聖書の世界ではエジプトの神々の影響をも多分に含まれている。キリスト、そのものは、洗礼者ヨハネと同様にマニ教てき、或いは仏教思想を取り入れているといわれている、仏教はヒンドゥー教と同時期に派生しているわけだ、そして、今の中東あたりを堺に様々に宗教の覇権争いが繰り返されてきたわけだ、その中で幾多の宗教が生まれ滅してきたわけと理解をする

原理主義や敬虔なクリスチャンとはいったい何を守っているのかといえば、根本原理を守っているわけでなく、まさに人を教育し易い、人が納得し易い、原理を信じているだけで、決して、根本ではない

キリストにしても、釈迦にしても モハメットにしても、もし生きていれば、今の世界をみたら、きっと違うというに違いないのです。

難しいけど、もし世界を平和にと考えるのなら、根本(ルーツ)を辿って見ることだ、根本にもどれば、かなり整理されるはずである、人類が希求する良心や業は同じような概念にたどり着くはずだと思う、

宗教指導者と信者は人間キリスト、人間モハメット、人間釈迦を知るべきであると思う。

こういう表現は許されるかわかりませんが、最近私はそう思う、

その原理、もしかしたら間違っているのかもしれない。

ギリシャやエジプトは地動説を理解していた。があるとき強制的に天動説に摩り替えられ、そして真実がコペルニクスによって語られ、ガリレオが証拠を突き出しても信じなかったように、

その原理が正しいとは決していえない

原理は 公理でも定理でもない、都合が良い源道なんだと理解してきました。

偏向した原理を信奉しても決して平和こない、偏向した原理を理解しあうなんてとてもできるはずがないのです。

根本にたちかえ、いろんな角度から、根本たる真実を見出す努力が必要

根本も決して一つではないだろう、素数のような根本があるはずだ、そこには誰もが認める絶対的な理があるはずだ。

違うでしょうか?