TeraCoreFM休閑閑話

旧butiPanther'sblogからタイトルをTeraCoreFM休閑閑話に変更しました

私の今の政治思想基盤

Ernst Lokowandt(エルンスト・ロコバンド) 東洋大学助教授が大学のサイトに投稿している

論調は極めて支持できる内容です

http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn013.html

 

大学のサイトなのでいつか削除されてしまうのでここに引用しておきます

国家神道の前段階・一

 歴史に関するテーマですから最初のところから始めたいと思います。と言いますのは国家神道は僕の感覚では一八八四年~一八九○年当たりから存在して、その前に二つの前段階があったと考えます。一八六八年つまり明 治元年から、いきなり国家神道になったわけではありません。最初の前段階と言いますのは、明治元年から明治四~五年までで、神道をそのままに国教にした時期です。神道の思想を国家が受けて、神道の要求する立場を神 道に与えた時代です。完全なる国教でした。神道を国教にするために、まず元の神道を復活させる必要があり、仏教的要素を排除する必要がありまして、神仏分離を行いました。その神仏分離は実際の問題として、廃仏策に発達したところが多いのですが、それはど うやら政府の意思によるものよりは、地方の行き過ぎ、政府の意思の誤解とか色々な要素があって、政府は意識的に仏教を圧迫しようという気配はあまりなかったようです。勿論政府の中にある神祇宮は別ですが。ただ政府 の政治的部門にはそういうつもりはなかったと私は思います。しかし仏教を守ろうとする気持ちもなかった、仏教はどうでもよい、ともかく邪魔物ですから切り捨てようという感覚でやったように思います。
 最初に神仏分離が行われて、またそれと平行して神道を国教とする具体的な現れとしては、明治元年からの神道に関する最高官庁の経歴なんですが、最初に神祇事務課が設立されまして、政府には七つの課――今の省に相 当するもの――があって、その第一位を占めたのが神祇事務課です。それは間もなく局と改名されて神祇事務局になって、総裁局の後の第二位に位置付けられました。明治二年の神祇官制度では、神祇宮は太政営と並んで最 高の権威を占めたのです。その繁栄の時期は約二年半くらい続いて、格下げになって神祇省を経て、教部省になったのですが、その繁栄の時期が示しているのは、神道の思想が国家に精神的基盤を与える、祭政一致の精神を 実現する、という思想の現れだったと思います。官庁だけではなく、神社は明治四年には世襲制の社家を廃止して、神社には「国家の宗祀」という性格を与えました。国家の宗祀とは国家の祭式・国家の儀式を行う場所という意味ですが、国家の宗祀という性格を与えて、 その性格は一九四五年まで続きました。再び排除されることはありませんでした。もっと前からなんですが、神主も官僚化されました。官僚化は格上げを意味するだけではなく、その代償も高かったと思います。つまり官僚となれば元々神主でない人も神主になりうるし、また転勤にもなります。神道の 場合にその地方別の習慣・慣習、やり方、柏手を三回か二回か、あるいは八回打つか、など場所によって違うのですが、そういう地方性の高い宗教の場合は、神主さんが転勤となると宗教色が薄れるという心配だけではなく、 実際にその弊害もありました。又は統一的な官僚主義の感覚で、幾つかの伝統的な神職の類が廃止になりました。例えば明治まではいた祝(はふり)がいなくなりました。今は宮司・禰宜・主典・宮掌しかないのです。神道の宗教性、宗教色、宗教と しての権威がそのために落ちたことは否定できません。一方国家の権威を借りて、権威を得たという側面もあって、そのプラス・マイナスを計算しますと、どちらの方が強かったのかは分かりません。しかしマイナスの面も あったということだけを強調したいと思います。そして一番重要な措置なんですが、明治四年の五月に神社を国家の宗祀にするという宣言をした日と同じ日に、社格制度を作りました。図のように神社に位を与えました。

            天皇(政府)

        伊勢神宮 ■■■

                          ┐

    官弊大社―――■■■ ■■■―――国弊大社 ・ 

    官弊中社―――■■■ ■■■―――国弊中社  ├官社

    官弊小社―――■■■ ■■■―――国弊小社 ・ 

別格  ―――■■■                ┘

 官弊社     ■■■■■■■■■■■        ┐

             府県社            ・ 

       ■■■■■■■■■■■■■■■      ・ 

       ■■■■■■■■■■■■■■■      ・ 

                 郷 社             ├民社

     ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■    ・       

     ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■    ・ 

     ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■    ・ 

             村 社            ・ 

                            ┘

 その日に何もしなかったのは伊勢神宮で、伊勢神宮は格別なものなので法規は触れなかったのです。要するに伊勢はトップにあってその下に官幣大社・宮幣中社・宮幣小社、国幣大社・中社・小社、そして明治五年から小 社と同じランクで、天皇と国家のために頑張った人、豊臣秀吉とか湊川神社楠木正成などをまつる別格宮幣社も加わってきます。後ほどの靖国神社はこの類です。宮幣社と国幣社は同格で、ただ順序としていつも宮幣社の方を先に並べます。月給も同じでした。その下に府県社があって府社・県社、最初は藩社もあったのですが、郷社、そして村社もその後に出来たのです。約二~三 か月後に郷社定則が出来、それによって氏子と郷社との関係に関する決まりが細かく出来、また氏子調べがされました。氏子調べとは江戸時代の宗教政策の延長で、ただお寺と変わって今度は神社に、各々の全ての日本人は どこかの神社に所属しないといけなくなりました。氏子調べはすぐ一~二年後に廃止されたのですが、しかし一度あったために全ての日本人は、神社への所属が明確になった。つまり神社ピラミッドに制度的につながったこ とになります。そうしますと国民の信仰が、最も下層の無格社や、村社から、ずっと伊勢まで導かれました。そして伊勢は皇室・政府につながりました。逆に上からのイデオロギーは宗教の面を通して、国民に浸透することになります。精神史・思想史にてらしてみると非常に上手く導くようにしたのです。それがこの時期の宗教政策の一番重要な点で、後々まで一番効果のあった処置でした。しかし神道をもって、つまり古代の概念をもって近代国家を設立しようという試みは、当然無理がありました。その精神的な力、イデオロギー的な力は神道にはありませんでした。

国家神道の前段階・二

 政府には辞めるか改造するかの二つの選択があって、神道を改造することにしたのが、明治四~五年の宗教政策の改革の意味です。明治五年から神道を道具にして格下げさせまして、そして教えを中心とする宗教に改造し ました。そのために不完全な祭教分離・祭と教義の分離を試みて、しかし不完全に行い、祭祀を式部寮の管轄にし、またその時に以前にあった神祇宮の神殿が宮中に移り、今の宮中三殿の一つになりました。祭式統一の色々 な措置も行いました。祭祀は宮中または式部寮の行うところとし、残ったものつまり宗教的な側面を政府が定義して、その内容を政府が決めたのです。大教宣布運動の時代となります。大教宣布運動とは――当時神道、もっと正確に言えば祭政 一致の思想を大教と言ったのですが――これを国民に広げることでした。その大教宣布運動で教えたのは、宗教的なものだけではなく、一般道徳的なものも、または近代国家の基礎知識、例えば権利義務の概念、それはそれ までの日本にはなかったのですが、富国強兵のようなものも説教のテーマとなりました。つまり説教というよりは啓蒙的運動・宗教的道徳的政治的側面のある啓蒙運動でありました。全ての神主さんがその担い手となりまし た。しかし神職だけではなく、ついでに、力が足りなかったせいでしょうけれども、仏教の坊さんも全部動員され、さらには落語家など、話しの上手な人も使いました。この国家の定めた教え以外はどんな説教も禁止されました。仏教に対する政策の面で面白いのは、政府の定めた大教宣布運動の内容を伝えることは許されても、仏教的説法は禁止されたことです。仏教に対する以前の神仏 分離政策、廃仏棄釈政策よりも厳しくなったと思われます。仏教にとっては一見再び国家に関係が出来て、良い結果という解釈も出来るでしょうが、実際を見ますともっと厳しい政策になりました。こういうふうにして神道に教えを持たせ、それを神道の中心的なものにしようという試みでした。このような政策は一八八二年~一八八四年まで続きました。八二年とは神職と教導職の兼任が禁止になった年です。教導職 とは大教宣布運動の担い手です。そしてその二年後大教宣布運動の教導職そのものを廃止したのです。なぜ廃止したのかといいますと、一つに当然仏教からの反対が強かったからです。もう一つは神道が教法宗教ではない、 神道の性格に反した政策であったため、続くわけにはいかなくなったからです。大教宣布運動は成果を上げたか、上げなかったかという評価は下しにくいのです。文献を見ますと、著者によって評価が違うし、今更それを調べ る方法もあまりないでしょう。しかし、それを続けることが不可能になったという意味では失敗に終わりました。その後の継続性はありません。行き止まりとなって、政府は明治四~五年の宗教政策の改革に戻らざるをえなか った。といいますのは当時中途半端に行った祭教分離を、今度は徹底的に行いました。徹底的と言ってもしかし、完全ではありません。しかし以前よりも遥かに徹底的に祭教分離を行いました。一方で教派神道の独立を認めました。そうすると黒住教とかその類のものは、神道の宗教的側面の担い手を得ました。一方神社に対して説教とか葬式を禁止しました。葬式とは、すべての日本の学者が言うように、単に葬 式だけではなく、宗教的活動一般をさすと解釈すべきでしょう。神社には説教も宗教的活動も禁止になったわけで、前の説教宗教とは正反対の一八○度の方針の変化だったのです。しかし面白いことに、宮社と民社にわけるのですが、官社においては禁止、民社は禁止だけど当分の問はその限りに非ずでした。その当分の間とは一九四五年まで続いた。つまり基本的には禁止、しかし実際問題としては 認めようということです。当時の宗教政策の曖昧さゆえの有効なやり方の典型でした。神社のある機能が失われて、そのために格下げになったのは当然でしょう。しかし格下げとは国から遠ざかるのではなくて、却って国家ともっと密接な結びつきが出来たと解釈すべきでしょう。以前の神祇宮・式部寮・教 部省などの管轄は、今度はもっと多くの分野において、府県知事の責任になった。府県知事は大変近くにおり、実際的な事情が分かっているので、より権力者となる、そういう意味でさらに密接な関係が出来たと解釈すべき でしょう。

国家神道化の完成

 そして一八八四年の教導職廃止の時からか、その六年後の教育勅語が重要な意味を持つようになったので、その時からか、完全な国家神道が出来上がりました。前段階の一番目は、神道を完全な宗教にして国教にした。こ れが明治元年から明治五年までです。二番目が五年から十五年までで、教法宗教に改造した時期です。そして第三番目は八二年と八四年の改革です。または九十年です。それ以後は完全な国家神道と言えるでしょう。その時までに体制は一応整っていました。確かに明治三十三年(一九○○年)には内務省にあった社寺局は二つに分けられ、一つは神社局で一つは神社以外の宗教を担当する宗教局となりました。これは教派神道も、仏教、 キリスト教等を担当する局です。そういう変換がありましたし、一九四○年には神祇院が出来ましたが、これらは二次的な問題で、基本的な性格は遅くても教育勅語から出来上がったと考えるべきです。教育勅語の意義に触れる必要もないと思いますが、何世代もの生徒が暗記して、色々な道徳的な項目を身につけました。内容は専ら儒教的ですが、しかしその道徳の基盤は皇室であり天皇であったのです。道徳を行うべき 理由はどこにあったのかは、天皇の良い臣民であるためであったのです。全ての道徳の基盤は天皇にあり、また天皇と臣民の関係は道徳によって結ばれます。国家神道教育勅語の目的は全く同じですから、「教育勅語は国 家神道の聖書」という性格付けは、当たっているであろうと思います。国家神道の出来上がった制度とはどういうものでしょうか。それに触れる前に今日の関心から言いますと、国教への発展は計画的であったか、また偶然の成り行きであったか、を調べる必要があるのではないかと思います。

なぜ神道だったのか

その前に明治国家の基盤として、どうして神道を選んだのか。アメリカ人の神道の研究家のホルトムが言ったことは、次のようなことです。キリスト教はもってのほか、圧迫されて日本国民から不信感ばかりがあって国教 にするわけにはいかないし、仏教は堕落して儒教の方からも国学の方からも批判をされて国民から顰蹙をかっている、また江戸幕府との密接な関係もあって仏教も不可能、残るのは神道だけであった、と。確かに一理あると思います。しかしそれだけではないはずです。一番直接的で単純で大きな理由は、言うまでもなく天皇でした。明治維新は尊皇懐夷をスローガンに始まって、王政復古に変わり、最初から皇室を掲げて幕 府に対して戦ったわけです。最初から明治国家の基盤は天皇でした。伊藤博文は有名な枢密院における演説で――ー八八八年の憲法会議を始めた時に、枢密院で基調演説を行ったものですが――その中身は、憲法には精神的 な基盤が必要である、西洋においては宗教である、日本にはそういう基盤がない、神道を含めて全部弱すぎる、そうすると日本において国家の基盤になりうるものは天皇しかない、そうはっきり言ったのです。それは一八八 八年以後の問題ではなく、もっと前からのものでもあります。新しい国家の基盤は天皇だったのです。天皇の基盤は何処にあるのかは、言うまでもなく神道にあるのです。三種の神器を預かっているし、天照大神の子孫でも あるし、祭祀、特に新嘗祭・大嘗祭・祈年祭などを行うし、そういう側面なしには天皇は考えられません。その天皇の性格・天皇の権威を強化するために神道を強化する必要がありました。神道が明治国家の国教となったの は、必然的な結果でした。後で切り捨てることが出来なかったのは、天皇は相変わらず国家の基盤であって、天皇の支配の正当化のために宗教的な側面も必要でした。また図のピラミッド(4頁参照)に戻りたいと思いますが、皇室とこのピラミッドとの繋がりは、伊勢神宮だけではなく、色々なところにあります。天皇が伊勢に参拝することは明治元年が最初のことで、それ以後はしょ っちゅう参拝することになりました。この繋がりを強調し、皆にわかるようなものにしました。その繋がりの一つが伊勢神宮です。又は古代の平安時代にもあった勅祭社、皇室は特定の神社に供え物を送る制度を復活させま した。そして別格宮幣社、天皇のために頑張った人を祭る神社という新しいカテゴリーを作りました。さらに、全ての神社のランクにおいて天皇を祭る神社――平安神宮、明治神宮、橿原神宮等々――を新しく作りました。それらは以前にもあったのですが、ある程度組織的に、このような神社を作ったのは明治になってからのことです。このピラミッドと天皇との繋がりは色々なところにあって、勿論神社そのものとの繋がりもありました。

国家神道形成の誹画性

 神道は必然的な成り行きで国教になり、国家神道が出来上がったのですが、その計画性において、さっき言いました明治四~五年・明治十五・十七年の二つの宗教政策の変革を見ますと、かなり極端な変革でした。計画的 にやればこのような変革が起こるはずはありません。神社の最高官庁を明治元年一月十七日に神祇事務課、二月には神祇事務局にしています。明治元年閏四月には神祇宮だったのが、明治二年には新しい神祇宮、明治四年に 神祇省、明治五年に教部省です。そのときには仏教も採り入れて他の宗教も管轄することになりました。明治十年に教部省が廃止されて、内務省の社寺局になり、この社寺局は明治三十三年に二つの局になっています。とにかく移動が余りに多くて、またその官庁の位の変化も激しくて、計画的とは見えません。明治四年の社格制度を図示して紹介したのですが、明治四年の前にも色々な社格に準ずる社格みたいなものがありました。勅祭 社・準勅祭社・神祇宮直支配社等がありました。しかしこういう制度をさらに発展させることなしに、明治四年に新しいスタートをやったのです。氏子調べは明治三年の九月に仮の規則が出来て、明治四年の四月に本格的な規則が出来、二年後に廃止されました。これも計画的とは思えません。まして最初から矛盾をはらんだ政策でしたから。まとめますと一つの計画性があって、これを組み立てようとか国教にしようとかいうことは、まったく見当たりません。しかしコンパスのような方針が大体頭の中にあって、ある程度の政策を取って、方向が間違ったこと に気がついた時に訂正をしたということでしょう。コンパスはあったが、マスタープランは無かったと思います。

国家神道の定義

 国家神道の本質と国家神道の性格はどこにあったのでしょうか。まず言わないといけないのは、ドイツ語の スターッ神道」、また英語の「ステート神道」という単語が、戦前の国家神道の時代にはありましたが、日本 語で「国家神道」という単語は殆どなかった。確かに豊田武の一九三○年代に書いた『宗教制度史』には、国家神道という単語はあるにはあるが、これは稀な例であって、一般的に使われるようになったのは、戦後の一九四 五年の十二月の神道指令からです。神道指令でも国家神道の定義がなかったらしく、「ステートシントウ、神社神道」と並列的に使って、神社神道を禁止するつもりはなかったらしいのですが、国家神道の定義がなかったので、しかたなくそう書いたのでし ょう。国家神道という単語はなかっただけではなくて、国家神道という概念も日本にはなかったように思います。これは非常に重要なことです。それは現在から見てどういうものだったのでしょうか。いままでちゃんとした定義は、なかったといえます。描写はあっても、定義は僕は見たことがない。まず国家神道を捕らえようとする場合に、困るのは神道には色々 な類があることです。神社神道・家族神道・皇室神道・教派神道その他です。その片一方の神社神道は国家神道で、教派神道はそうではない。そういうふうに分けようと思っても中々難しいのです。例えば神社神道と言っても下の方の稲荷の信仰は、国家神道的性格が薄い。また逆に上の方の伊勢神宮の場合でも、個人的な宗教的側面もまだある。完全に分けるわけにはいかない。教派神道にせよ、確かに天理教のよう な純粋宗教的なものもあったのですが、大教宣布運動の本部であった大教院が分かれて、その神道側の跡継ぎの管轄機関としての神道事務局が廃止されてから、神道教派を作ったのです。新しい神道教派です。名前は神道で あった。教派神道ではあるのですが、元々そういう性格でしたので国家神道と関係がないとは言えないでしょう。つまり神社神道は国家神道で、教派神道はそうではないなどとはとてもいえないのです。一応形式的に定義をしてみますと、「国家神道は神道の国家と関係がある側面の個々の現象を総括した概念である」。この形式的定 義と並べて内容的に言いますと、「国家神道皇室神道と神社神道を基盤として構築された国家的祭式の体系であり、それに付属した制度的基盤及び教学上の上部構造を含む」とこのようになると思います。教学上の上部構 造とは専ら教育勅語などをいいます。

国家神道の宗教的感党

 国家神道が効果・効力を持つ条件として、一八八二年に宗教的側面と祭祀の分離が行われて、宗教と祭祀を分離したのが一つ。もう一つはこの分離は本物ではなくて擬制でした。この二つの条件が前提でした。完全に分離 したのなら、効果が上がらないでしょう。あまりにも密接な関係が続くならば、皆そういう擬制を見抜いて効果が上がりません。擬制と言ったのは最後まで府県社以下の民社も国家の宗祀という性格をもっていたからです。宗教的感覚や概念は全て同じです。説教が禁止されたとは言え、学校教育で歴史の時間に、天照大神以降のものを歴史として覚えさせたのですから説教をしなくても済むのです。もう一つは特に民社で宗教的感覚が育てられて、同じ御祓をどこで受けても、効果は同じで感覚は同じです。説教・説明をしなくても済むのです。ここは神道の凄い強さの前提だったと思いますが、感情だけに訴えて理屈 は一切言わない。そして神道は宗教ではないという理解に苦しむ理屈を、権力をもって通した。そうすると宗教でなければ他の宗教との相対化も不可能です。絶対的なものになったのです。理屈を言わないので反論も出来ない。反論をしようという気持ちも起きてこない。しかも宗教心という感覚は、持たない人もいるでしょうが、大体の人が持っています。そして儀式は直接に感情・感覚に訴えて、反論もない ので、効果をもったのは当然です。そして最低限の知識は宗教的側面、つまり民社や学校で身につけるという上手い絡み合いがあり、効果を持たざるを得なかったでしょう。非常に上手く出来た制度である。上手く出来たと 言えば、言い方が悪く、悪気があってずるく、そういうふうに作り上げたというふうに聞こえるでしょうが、そういうつもりで言っているわけではありません。長い発展の結果としてこうなったので、いつも修正を上手くや って、行き過ぎもあまりなくて、非常に力があり非常に上手に発展した制度であるといえます。その場合に宗教的側面と非宗教的側面の距離が重要なものだったのです。分けているようで分けていない、だけど距離を適切に した。これも一つの前提であったのです。さっき言いました八二年のところで説教は禁止、しかし民社の場合、当分の間その限りにあらずという措置は、とても適切であったと思われます。国家的神道とそうでない神道、具体的には内務省の神社局と宗教局の管轄の違いですが、それをもって神道を分けた印象を与えたのですが、勿論そうではありません。神道は国家の範囲に含まれるものと、国家にはあんま り関係がないものと一見二つに分けていて、しかし、実は神道は相変わらず一つのもので、神道そのものは二重性格を持つようになりました。しかしこの上手く出来た、強い効果の条件は、その弱さの条件でもあったのです。と言うのはその性格は非常に曖昧で、色々な矛盾の絡み合いに基づいていたわけです。把握したり理解することは出来なくて、定義をする ことも出来なくて、動かすことも出来なくなります。国家にとっても誰にとっても。もう一つは国家との関係が余りにも密接で、独自の立場がないことです。つまり明治五年から道具として使われて、独自の発展を国家が許さなかったため、自分の哲学、自分の感覚、自分の価値観をもっていません。独自 の性格・哲学はなく、国家と非常に密接な関係にある。ヨーロッパにおいて教会が力を発揮出来たのは、国家と別の立場があって、その立場に立って国家を動かそうとしたのです。それが良いというのではありません。ただ、 国家を動かすためには独自の立場が必要です。密接に抱きついて国家を動かすことは不可能です。逆に国家から言いますと、神道はちっぽけなものではないのです。大きな存在で伝統のある、動かしようのないものです。国家も神道を動かすことができなければ、神道も国家を動かすことができない。その結果として共 倒れです。共倒れというのは言うまでもなく第二次世界大戦に走ったということです。

国家神道の機能

 それを具体的に言いますと、国家神道の果たした機能はどういうものだったでしょうか。一つは天皇支配の正当化です。しかし天皇は自分であまり決定を行わなかったのです。決定をしたのは政府であって天皇ではありま せん。しかし政府は誰に対して責任があったかと言うと、天皇なのです。天皇はなにもしない。そうすると天皇の支配の正当化はそのまま、しかも盲目的にどんな政権でもよく、時の政権の正当化となります。自分の価値体 制は成り立ちません。もう一つ、国家神道の持っていた神国思想は非常に面白いものです。伝統的な「国家」の定義とは、国土があって国民があって支配があるという、三つの要素があれば国家があるということですが、これを日本に当てはめ ると国土は神によって生まれ、国民も神によって生まれ、支配は天照大神の命令によって天皇が行うという具合に三つの要素ともに神様に由来するわけです。まさに神国であるのです。この神国思想が国粋主義に繋がったこ とは当然だし、八紘一字に繋がったことも当然でしょう。八紘一字は別に侵略的な要素ではなくて、日本が当然のこととして日本に与えられた地位を占めようとする。そしてそういうことを他の国々が当然のこととして認め ないといけない、そういう悪気のない感覚だったと思います。三つ目の機能は、国家的義務と宗教的義務を同一にしたために、国民の思想的統合の機能も果たしたことです。僕がドイツ語で考えたことの、下手な日本語訳なんですが、「磁気をかけるという精神的機能を国家神道が果た しました。その結果、神社に参拝しなければ非国民になるのです。この三つの機能と、その悪い結果は必然的なものではない。国家神道が出来てからも第二次世界大戦時、またその以前の専制主義もあれば、もっと前には大正デモクラシーもあった。国家神道はあの結果をもたらしたとは いわない。言いたくもありません。しかし日本がそういうふうに走るようになった時に、妨害する物を設けなかっただけではなく、寧ろ進める方に力をなした。決定的な要因ではなくて、強調要因として働いたと思います。

国家神道の現在

 これは全部過去の歴史についてのものであって、現在についてはどういうことが言えますでしょうか。まず現在にとっての意義です。明治時代と同じように、非計画的に幾つかの処置が取られる、また取られそうになる。例えば伊勢神宮への参拝は佐藤首相が始めた習慣で、大平首相でさえも逆らえないほどの伝統になった。今、不思議なことにマスコミ は全然騒がない。靖国の場合は騒いで、伊勢神宮の場合には既成事実があるために、誰も何も言わない。ましていつも報道されるのは、首相は政治に関してどういうことを言ったのか、行ったことに対してではなくて、その 発言を報道する。そうすると神道の立場から言うと、首相は伊勢神宮に参拝して、伊勢において国政を語る。神に対してではなくて新聞記者に対してだが、その方向の違いさえ見過ごせば、一番理想的です。伊勢神宮におい て国政を報告する。これは祭政一致の実現ではないかと思われます。靖国問題もいずれその法案の実現になるかどうか、それは進行中の問題ですが、しかし靖国で言えばいささか呆れたというか、腹が立ったというか、明治時代とまったく同じ論じ方があります。明治時代では「神社は宗教 に非ず」だから…‥というわけです。靖国法案の第一条だったか第二条だったか忘れましたが、靖国神社は宗教施設ではないと明確に規定しています。もうそろそろ新しい考えを思いついて欲しいのですが、明治時代と全く 同じ論じ方で、同じ結果をもたらそうとするわけです。次に皇室の祭式ですが皇霊祭・新嘗祭等には、首相、参議院・衆議院の議長等が出席します。ただしプライベートな資格です。肩書で呼んで、プライベートの資格で出席をするなんて、ちょっと不思議な現象なんですが、 それもいままで批判を呼んだことがない。靖国の場合はニュースになりますが、皇室の場合はタブーみたいです。この幾つかの現象の復活が、しかも明治時代と同じやり方で見られます。もう一つの現在的意義というか、どうして国家神道は勉強に値するのかと言うと、今の指導層がどういう意識を持つのか見えてくるような気がするからです。例えば靖国神社の場合に、すぐに話題になるのは軍国主義とい うことです。僕はそれは信じない。軍国主義は問題ではないと思うのです。いくら今、約6%の成長率を目指して、防衛費がGNPの1%を突破したとか言っても、今の世界情勢の中で、軍事大国になる力もなければ、地理 的条件も整っていないし、気質にも含わないし、軍国主義はナンセンスと思います。しかし何が問題になるのか。神道は集団、元々個人ではなくて、共同体の宗教ですから、集団主義を助長し、国民の生活感覚を統合させる、 まさにこの統合させるという意味で効果的である。今の政府がこのように色々な処置を取るのは、この目的というか、目的と言ってもマスタープランがあるのではなく、コンパスがあって、そういう目的でやっているのでは ないかと思います。いささか言い過ぎがあったかも知れませんが、僕は分析だけ述べたつもりです。最後も分析です。第三者、つまり日本人ではない人として、日本の事情を眺めますと、今の政教分離制度、国家神道のために出来た厳しい分離制度――国家は一切宗教活動をやってはいけません。宗教活動のために税金を 使ってはいけない。憲法第二十条・第八九条です。――この厳しい分離制度は実際問題として厳しすぎる。最高裁が言ったように、宗教にも社会的側面も外的側面もあって、完全に分離することは不可能です。厳しすぎるた めに非現実的です。そのために問題がしょっちゅう出て来るわけです。つまり信教の自由の目的のために、ある程度の関わり合いを認めた方が良いのではないかという考え方もあるのです。例えば伊勢の近くの津市の地鎮祭を例といたしますと、体育館を建設しようとした時に地鎮祭を行った。町や市は公の金を使って宗教的活動をする。これは明らかに憲法違反であろう。市議会の議員が訴訟を起こして最高裁まで行ったのですが、その結果として合憲である、憲法に違反しないという結論が出てしまいました。訴 訟を起こさなければ、曖昧な状態が残った。起こしたために事情がかなり変わった。戦術的には――また信教の自由のためにも――非常に下手だったと思います。君が代とか日の丸に対する反対意見もそうです。ドン・キホーテのように風車に対する戦いの印象があるのです。僕が不思議に思うのは、学校の儀式に国家がどういう関係があるのか。卒業したり入学式において、どうし て国家的要素が入るのか。それは分からないのですが、しかし反論としてよく読むのは、法律的基盤がないとかいう議論です。あれは別にあってもなくても、事実上、国歌・国旗であり、それに対してこのような理論をもっ て戦うのは、勝ちようがないし、逆効果をもたらすのではないでしょうか。最後に言ったのは意見表示に聞こえますが、もう一度繰り返して言いますが、これもまた分析のつもりで言いました。まとめますと、国家神道、つまり一九四五年までの状況を厳密に眺めますと、現在のいくつかの発展をより正確に理解することができるし、またそのいくつかの発展の間の関連性も見えてきます。なかなか面白いテーマで す。以上です。