TeraCoreFM休閑閑話

旧butiPanther'sblogからタイトルをTeraCoreFM休閑閑話に変更しました

まった!!「目をみて話をしなさい!」

親に怒られる時に云われた事

恋人に

会社の上司に言われる

私に目を見てはなしなさい!

Look Me In My Eyesと外人に言われた人

いると思います

 

一方 

何 眼つけているんだ

なにガン飛ばしているんだ

 

時代劇では

表を上げよ

こら 御武家様見てはならねー

 

そうなんです 日本人は古来より目上の人に目を合わせてはいけないのです。

 

どちらかというと「なにガン飛ばしているんだ」というように人の目を見ると言うことは喧嘩を売るという事である

日本人にとってはとても無礼な事であり 眼力 目配りは武士にとって相手の心を動かす最大の武器であり

また、虚をつく戦術なのである

 

催眠術など人を支配するためには目を見させる事は人を支配する道具なわけです

同調効果 これを使った目を合わせて相手と同調する。さらにそこから、トランスに誘導するのはもっとも効果的

 

だからセクシ-な流し目をヨーロッパの人は巧く使う 男性も女性もだから目が大きいんだよね

 

 

武術の世界では

宮本武蔵 五輪書

水之巻 第三節 兵法の目付といふ事

一 兵法の眼付と云ふ事

 

眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり。敵の太刀を知り、聊いささかも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事なり。工夫あるべし。此眼付、小さき兵法にも、大なる兵法にも同じ事なり。目の玉動かずして、両脇を見ること肝要なり。か様のこと、急がしき時、俄にわきまへがたし。此書付を覚え、常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処、能々吟味有べきものなり。

 

つまり相手の目そして自分の目に惑わされることな遠きをみ そしてもっとも相手の筋肉が生理的に騙しにくい刀をもって腕の両脇を観察する 足捌きは虚をつく動きも含まれるので

騙される可能性があるし 呼吸もコントロールできる そういうところに巧く目をつけていく この眼の付け様が一番大雪なのです

 

この眼の付け様が 目付けとなり ガンつけになり ガンを飛ばすに発展をしていくわけです

 

新陰流の柳生石舟斎と柳生兵庫助も同様の事を行っています。

 

武士の家系に生まれた作家の石川真理子さんも小笠原流の「目の使い方」の礼儀についてこのようにいっています

http://www.lady-tokyo.com/column/bushi_back/bushi081105.html

「ふだんは「遠い目でいるように」と教えられました。誰かの話を聞くときも、やはり、遠い目でいるほうが望ましいとのことでした。

 「遠い目」というのは、10メートルぐらい先に視線を置くのです。そうすると実に不思議なことに、視界が広がったような感じになって気持ちが落ち着くのです。とても穏やかな心持ちになるのですが、これこそが「遠い目」のねらいなのです。武家の女はいつでも、おだやかに、たおやかにいなければなりませんでしたから。」

 

相手の話を聞くときも、あまりじっと見つめたりしないことです。熱心に耳を傾けつつも、目線は相手の向こう側も含めて眺めるようにすること。そうすると相手は不思議と話しやすくなるというのです。

 武家の礼を代々伝承している小笠原流礼法では、このような目線のことを「遠山の目付」というそうです。

 

これは宮本武蔵も先の冒頭で「遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」と記している事に通じます

 

日本人にとって目を見て話す事が本質的なマナーなのだろうか?

冒頭で「目を見なさい」というのはみんな相手の支持なのです

相手の支持 命令があって目を見る つまり支配されるということ

  

ここに日本人の礼儀を根本があるおではないだろうか?

日本人が思う 涼しい目というのは 達観した目とはなんだろうか?

 

なぜ?ネガティブな感情を吐露してはいけなのだろうか

私は幼児心理学等はまったくもって専門外なので正しくはないと思うが

私は性格的に悩みネガティブ思考に陥りやすいのですが・・・

表題の疑問「なぜ?ネガティブな感情を吐露してはいけなのだろうか」

これは一般の人がネガティブな感情を被曝すると嫌悪感を懐くからという 被曝予防のためなんだろうと思います。

 

喜怒哀楽は人間の情動にとって、全てが重要な要素で一定のバランスで心理的な刺激を対処していく必要があるのではないかと考えます。

 

人間の赤ちゃんは はじめこの喜怒哀楽を分別できずにあらゆる情動を興奮という現象を泣いて伝えるという能力しかないのだろうと思うのです

 

これが成長していくと、情動が発達して喜怒哀楽を使い分ける事ができるように成長していくのだろうと思います。

笑えば 人も喜ぶ 自分も快楽を得ることができる

怒れば 人に自分の防衛反応を伝える事ができる

泣けは 自分の痛み(身心)を伝える事ができる

そんな認識を伝える手段を覚えていく

 

ただ この成長過程で其の使い分けを理解できないまま成長すると

怒れば 欲求の達成につながる そして暴力に繋がる

泣けば 欲求の達成につながる そして暴力に繋がる

笑わせれば 人が興味を持つ

という様々な状況を混同して 全ての喜怒哀楽に暴力的快楽を求める事になっているのだと思う

 

心の成長というのは なぜ美しいものを見て泣くのか なぜ別れめにて泣くのか なぜ自分の不甲斐なさに泣くのか なぜ哀悼にさいしてなくのか

同様に怒るという自分の感情や興奮はどのようなものか

喜びという感情はどういうものかを 分別し 心と対話ができ バランスよく自分の身心を安定させる

人間の生理的な反応と自分の心理との対話をして人にどうような表現が自然にできていくのか

これが人間の心の成長なのではないかと思う

 

泣いてはいけない

ネガティブな感情をもってはいけない

いつも楽しくポジティブに

こういう事をいう人達は本当に健全な人間となるのだろうか

愛する人との哀悼ができない人

怒らなければいけない時に怒る事ができない人

笑いが必要な時にそれを否定する人

 

それでいいのだろうか?

 

そして 一番大事なのは

発信した信号を人間のコミュニケーションとしてどう受け答える能力があるかが問題だと思う

ネグレクトだけで いいのだろうか?

 

 

FACE BOOKでワシントン・ポストに抗議のコメントしてしまいました 汗

これって世界中にすごい誤解を招く! これでは中国と同じ扱いじゃないですか?
思い余って 抗議のコメントしてしまいました。

是非 この記事を書いた人には日本にきて観光してもらいたい 浅草 京都 伊勢神宮 富士山にいってもらいたいです。

コメントの内容以下掲載します。


Is it true that Japanese whether the atheists? 
really?
We also have the faith and interpretation of multitudinous gods but they also have the idea of Shinto syncretism.
Please try to come to Japan! The beautiful mountains and forests and shrines and temples, beautiful
Fuji even be subject to mountain worship

However, Japanese people believe that practice rather than faith
Japanese is based on very important God and Buddha.
And, we have established the freedom of religion by law as a country

本当に日本人は無神論者なのでしょうか?
八百万の神という解釈と信仰を持っている、また、神と仏習合という考え方も持っている。
日本に来てみてください! 美しい神社仏閣、そして美しい山や森
富士山だって山岳信仰の対象です

日本人は、信仰ではなく慣習と考えているのかも知れません
日本人は仏様と神様をとっても大切にしています。
そして、国として法律で信仰の自由を定めています。

唯のスポーツ(オリンピック)公園になるのは反対です

先程NHKの首都圏NEWSで「神宮外苑 再整備計画まとまる」の報道をみて思ったのが

明治神宮の外苑を「東京都は、国立競技場を中心とした神宮外苑を国内外から多くの人が訪れるスポーツの拠点にしようと、17日、一帯の再整備を促す都市計画について審議し、その内容をまとめた」としているが。 明治神宮の外苑を東京都が勝手に計画を立てていいのだろうか?

 

神宮外苑は明治神宮の外苑であります。

明治神宮外苑創建の趣旨

 

明治神宮外苑は、明治天皇とその皇后、昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるために、全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕により、聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、また文化芸術の普及の拠点として、憲法記念館(現明治記念館)などの記念建造物と、陸上競技場(現国立競技場)・神宮球場・相撲場などのスポーツ施設が旧青山練兵場跡に造成され、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献されました。

創建から終戦までは、国の施設として管理され、その間の昭和6年には、水泳場(神宮プール)が開場しました。

戦後は宗教法人明治神宮の外苑として国の管理をはなれ独自の事業収入により諸施設の管理運営を行い現在に至っております。

外苑とは皇居や神社の外にある付属の庭園であるわけだから本来ご神域のはず

基本的には深淵たる森を大切にすべきで自然に敬意をはらった領域でなければならないのではないか

過去にはこんな私設が合ったそうです

相撲場など

写真集より

http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/tokyo/chapter1/title102.html

 

 

 

 

ブログ移行しました

スマホ対応なのかな

mixiはてなダイアリーはてなブログと三回目のお引越しです。

私 スマホユーザーではないのでどういう見え方になっているかわかりませんが

とりあえず見やすくなっているのでしたら、結構なことです。

今後共よろしくお願いします

藝術が心の薬というならば副作用もあります。

藝術という主張は強い毒性があるものだ ワーグナーの楽劇はその思想背景を考えれば、ドイツ国家にしても欧州にしても ユダヤとの関係においてもかなり慎重に表現していかないと様々な人にハームフルな影響を与える 我が国のように日独伊三国同盟の施政下においてワーグナーを脳天気に礼讃する人たちもいるが、過激な思想体系をもった藝術だということを理解してほしい。 子供たちが 音楽は平和の共通言語だと教えられ、無思慮にワーグナーの音楽を様々な人の面前で高らかに演奏することはできない 音楽に限らず藝術は思想や個々の心理描写のエッセンスの塊であるなので優れた藝術が全て人に良い刺激を与えるとは限らない。 藝術といのは思想の表現武器である一面も忘れてはならないと思う

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130510-OYT1T01215.htm

ただし其の藝術作品が悪影響を誰かに及ぼすからといってその存在を排斥、抹殺してはならない 要はその存在威儀を理解できるか どう受け止めるかは個人の趣向なのである それには作品を十分に理解し読み取る力が必要ということです。 日本の音楽 美術教育に抜けているのは個々です、藝術は素晴らしく美しいものであり必要なものであるとしか教えていない 副作用についての但し書きがない これを大前提にしないとただの快楽主義になってしまうということです

ちなみベートーベンの第九のシラーの詩も私には十分に歓喜できないのです フリーメーソンの理念における共和国主義であり強大な宗教的思想の下で暴力的の快楽を貪り狂信的な思想を歌にするのは極めて危険思想だと思っています。

 

根性は人間の品質

根性とは
文字通り 「根」「性」

昭和の体育会系の「根性」とは違う

仏教では
仏教では仏の教えを受け入れる者としての、宗教的な素質や能力を指しています

そもそも 仏の道に入門する者の「潜在的なパフォーマンス」
つまりもって生まれたその人の潜在能力

つまり
「おまえら根性出せ!!」といって元々その力をもっていない者に出せといってもだせないのです。

あるがままの能力を出すことを根性を出すという事になるのです。

その能力とは「吸収力」だったり「理解力」なのです

仏教の世界で六根清浄(ろっこんしょうじょう)と言う言葉があります
その六の根の能力とは
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
なのだそうです。

そして根性の「性」は生まれついての本質との事

この6つの能力と生まれ持った本質を発揮する事が根性を出すということなのだそうです。

安易に無理難題に挑む限界を超えた努力の事を指す訳ではありません

根性論的精神論というのはそんな安易なものではなく

人の能力の品質を指すのだと 知りました。