TeraCoreFM休閑閑話

旧butiPanther'sblogからタイトルをTeraCoreFM休閑閑話に変更しました

一期一会のスケール

先日と私より少し若い人と剣術と能、日本文化について話をした。

剣術の話をすれば、技術論になるのである、早く、きれいに できればそれだけでいいと思っている
能の話になれば ストーリーとちょっとかじった教養を前面にだしてかたるだけ
 
私は心の中で「それで何を理解するの」と思う
 
一期一会は幕末、私がもっとも尊敬する武人である井伊直弼が「茶湯一会集」で考案した言葉
私は日本の文化や芸術、武芸を考えるときに日本人独特の死生観を抜きに軽んずる事はできないと思っています。
 
一休や世阿弥が生きていた時代様々な争乱や飢餓 疫病により人々の死は身近であった
昨日まで笑いあった仲間が、今日は死んでいる。 生きている人間にとって、 今では創造できないほど死は身近なものであった。ということは理解できるであろうと思う。
 
私は46だが、でも10年後の夢は見られる。 だから 気軽に「またあいましょう」 と声を掛け合う。 そして10年後に再びめぐり合える確率は極めて高いと思います。
 

 

武士に至っては ご主君のため、そして 日常的な行動の中にも非日常的な戦場 戦いをもって武士の作法は体系化され、 「いかに生きるか」「いかに死ぬか」が表裏いったいになった思想体系の中で生きている。
 
その中で 茶道というおもてなしの空間、礼法の中で 人の真心、絆を大切にしそれを表芸するものだと思っています。
人間は必ず死を迎えるそこからは何人たりともあがなえない。 
 
 能楽も隅田川 清経 六条の御息所の話のように 死んてしまった人たちの交流が幽玄という世界観で描かれている。
死んだものたちと向き合い、 己がどうやって生きていくかを悩む世界
これら死生観をだれもが持ちながら生きてきたのが日本文化 芸能や武芸の主たる背景であろうと思う。
 
日本の文化を考えるときその死の身近さ 価値観と、向き合って 様々な美を見出していくことが、現代人にとって その美しさや追求された思想、哲学を再発見できるのであろうと考えています。
 
一期一会のスケール 一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること 
 
現代では軽々しく使われすぎなのかもしればい。
 
坂入 譲

自分はどの自分を殺すだろう

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「平野啓一郎×野口健」  http://www4.nhk.or.jp/switch-int/x/2013-07-20/31/25659/  で 平野啓一郎の著書、最新作『空白を満たしなさい』の中にこんな一説があるとの事

ゴッホはどのゴッホを殺したのか

ゴッホはなぜ自殺したのか

 ゴッホ自画像

https://www.google.com/search?q=%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F&hl=ja&rlz=1C2_____jaJP513JP513&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=myLrUYHJE9CyiQek14DQCA&ved=0CCwQsAQ&biw=930&bih=595

参考

https://cakes.mu/posts/1596

 

なるほど

以下私感

 

人間は縁の数だけ顔がある。

その縁や状況の中でいろんな性格を持つ

自殺をしたいと思った つまり殺したい自分はどの私なんだろう?

 

子供や好きな人間といるときは死にたいとは思わない

いや死にたいとおもっても 頑張ろうと思う

ただ一人でいると どうしても殺したくなる私がいる

 

生きている価値がないと思う自分が一番にくいのかもしれない

この自分だけを殺すことができるならばいいのだが

体は一つなのでその自分を殺そうとすると大好きな自分をも殺してしまうことになる

 

難しい問題だ

 

大嫌いな死にたがりの自分は結構いろんなことを教えてくれる

この自分が一番すきなのかも知れない

 

つまり この厄介な人間を活かさなければならない

 

だな でもこの厄介な自分は時々自分を支配してしまう

困った奴だ

 

シェイクスピの世界にはならないよ

シェイクスピアに出てくる登場人物はどんな人も思慮深い 

王も乞食も妖精も貴公子も金貸しも侍女も田舎の青年も王妃も みんな 考え抜かれた言葉を発し 応える物も機知に飛んだ 素晴らしく推敲された言葉を返す

そんな社会はない 現実は頭のいい人 教養のない人 唯の下衆な人 語彙のない人間 そんな話なんて成立しない 会話ばかりだ

 

だから反面教師として 本は読むべきだ。 すこしでもシェイクスピの世界のような会話ができる成立する自分の社会をつくるために。

 

極めて放送してもらいたくない番組(書き順バトルってなに)

木曜19時より放送されている浜田がMCをやっている「プレバト!!」の書き順対戦 これは日本の文字文化も大きな誤解を押し付けるものと考えています

書き順(筆順)というものは原則的に答えはないのである。

まずは以下の本を紹介しましょう

 『筆順のはなし』(松本仁志/著、中央公論新社/刊)

http://www.amazon.co.jp/%E7%AD%86%E9%A0%86%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E4%BB%81%E5%BF%97/dp/4121504356

この本に書いてあることは 現在の一元的 絶対的ものと信じられている筆順は

 

「義務教育諸学校教科用図書検定基準」という国が定めた基準の「第3章 各教科固有の条件」の中の[国語科「書写」]に、「1選択・扱いおよび構成・排列」「(4)漢字の筆順は、原則として一般に通用している常識的なものによっており(後略)」とあるので、「一般的に通用している常識的な」筆順であると判断する主体、すなわち教科書検定を行う国(文部科学省)が決めたことになる。

元は、1941年からの国民学校期に称された第5国定国語教科書の教師用書所収の筆順だ。そこには668字 

最悪なのは

1958年には、文部省から出されていた『筆順指導の手びき』それ以前は

 例えば、「上」という漢字の筆順は「|」からか?「ー」からか? 正解は「どちらも正しいとはいえないが、誤りでもない」

 1941年から国民学校期で使用された第5国定国語教科書の教師用書所収では、どちらの筆順も並記されている。

 

そも そも 日本の漢字というのは音読主体であり漢字の意味もそう重要ではない 中国から伝来した文字文化を空海などが日本語に整理したものであるから。

 

そして本家の中国の王羲之でさえも 決まった筆順で書いてはいない 筆順は 書体の変遷 筆 紙の発達に伴いもっとも書きやすい運びで書き手本人が決めていくものであるといえよう

 

もちろん書の流派にはそれぞれ美しい筆順というものが継承されているが それは流派の秘技なのである 宗家の文字を伝えるための技法のひとつなのである

 

つまり現代の正しい書き順をもってすれば、空海・橘逸勢嵯峨天皇の三筆の筆順は過ちであり 小野道風も 本居宣長 松尾芭蕉もみんな過ちということになってしまいます。

 

日本の歴史ある文字文化を現在に活かそうとするとき 書き手がどのような美意識をもって どのような書体で文字を描くかによって

継承された文字の系譜が何本も脈々と存在してきたものを 戦後の文部省と一部の頭の固い学者が日本固有の文字文化を滅却してしまった。

この過ちを正していく必要があるのではないのだろうか

 

現代の書道家もそういった愚の風潮に流され答えがないものを単一化させてしまっている。非常に大きな問題であると思う

 

 

私が古書店で手にいれた昭和初期のお手本でさえも筆順は画一していない 重要なのは筆運びなのである

<a href="http://f.hatena.ne.jp/butiPanther/20130718194900"><img src="http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/b/butiPanther/20130718/20130718194900.jpg" alt="20130718194900"></a>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

褌は神をまといし神聖で禊な着衣なのである

日本の神話にとって最初で最大の夫婦喧嘩である最大の離婚劇の

イザナギ イザナミの喧嘩の末に登場するのが 褌なのです。

 

まずはわかりやすく青空文庫 

「わが夫の神よ、それではこのしかえしに、日本じゅうの人を一日に千人ずつ絞(し)め殺してゆきますから、そう思っていらっしゃいまし」とおっしゃいました。神は、
「わが妻の神よ、おまえがそんなひどいことをするなら、わしは日本じゅうに一日に千五百人の子供を生ませるから、いっこうかまわない」とおっしゃって、そのまま、どんどんこちらへお帰りになりました。
 神は、
「ああ、きたないところへ行った。急いでからだを洗ってけがれを払(はら)おう」とおっしゃって、日向(ひゅうが)の国の阿波岐原(あわきはら)というところへお出かけになりました。
 そこにはきれいな川が流れていました。
 神はその川の岸へつえをお投げすてになり、それからお帯やお下ばかまや、お上衣(うわぎ)や、お冠(かんむり)や、右左のお腕(うで)にはまった腕輪(うでわ)などを、すっかりお取りはずしになりました。そうすると、それだけの物を一つ一つお取りになるたんびに、ひょいひょいと一人ずつ、すべてで十二人の神さまがお生まれになりました。
 神は、川の流れをご覧になりながら、

原文は

時伊弉冊尊曰。愛也吾夫君、言如此者。吾当縊殺汝所治国民、日将千頭伊弉諾尊、乃報之曰。愛也吾妹、言如此者。吾則当産日将千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。是謂岐神也。又投其帯。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開齧神。又投其履。是謂道敷神。

これが

アマテラス、スサノオやツキヨミが生まれるシーンである

 

褌がどれだけ神聖なものなのかこれでお判りになると思う

朝の禊から夜まで 神聖な褌を日本人は着用しているのがのぞましい

 

【宣言】選挙に関係するネットの記事には反応いたしません

ネット選挙解禁に関して

明日から選挙戦突入とのことですが、 この期間 選挙に関係する内容の記事には申し訳けありませんが、 反応を差し控えさせていただきます。

今回のネット選挙解禁は甚だ疑念を抱いておりますのでどうかご容赦ください。

理由はいろいろありますが

特に下記において疑念を抱いております。

 選挙の投票行動は思想 心情の自由であり内心の自由の範囲なのだから、それがいかなる知人により推測され、政治信条 投票行動が不特定多数に判断され、社会活動上の第三者判断に影響を及ぼすリスクがあると考えております。

以上よろしくお願いいたします。

 

 

 

ラジオで救われました

この人は信じられる 今日ラジオを聞いて( http://www.nhk.or.jp/gogomari/ メンタル系の人の話で私にしっくりくるお話しをしていた人が田中ウルヴェ京さん 日立ソリューションで頑張ってるんですね。

  私見たいな考え方(ストイック)を嫌う人いるかも知れませんが今だって、エネルギーに変わってよかったと思っています。  まさに田中ウルヴェ京さんの言っていることだったら 納得します。

 http://www.hitachi-solutions.co.jp/column/mental/vol8/
「調整」と「押し殺す」ことの違いを明確に
喜怒哀楽は人として自然な感情であり、大切なものです。それを無理に抑えてはストレスがたまるばかり。たまったストレスは倍になって、感情の爆発を引き起こすかもしれません。そうなれば、元の木阿弥。我慢しただけ損ですよね。
逆に、抑制を続けているうちに無感情になったり、自分の感情に対して鈍感になってしまう可能性があります。自分には感情があまりないという人たちの多くは、実は感情豊かである場合が多いように見受けられます。それだけに傷つきやすく、自分を守るために無感情にならざるを得なかったということがまま見受けられます。そうなると、無気力になったり、人のいいなりになったり、望ましい行動はとりにくくなるでしょう。
このように、多すぎても、少なすぎても、自分の望ましい行動を阻害してしまうのが感情。しかしながら、
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【感情は人を動かすエネルギーでもあります。嫉妬や怒りが努力につながったり、悲しみが人をいたわるやさしさになったり。そもそも「感じること」そのものが人間の特権であり、人生を彩ってくれると思いませんか。つまり、感情の量を適量に調整したり、その矛先をよい方向に変えたり、「コントロール」することが重要なのです。】
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