自分のために・・・

おそらくこの言葉が、今の日本のありようを決めたのではないだろうか?
自己の個は少なくとも社会の中にあってそれそれの個性を発揮できるのである。

大きいな話からすれば私がかつて何度も引用する国家論(スピノザやホップス)の社会論と自然権の話をする。

スピノザは各人が「他人の権利の下にある」と同時に「自己の権利の下にある」と説き、
人が生まれながらに持つ自然権の調整を通じてその成員に安全と平和を保障する機構が国家である。と説いている。 それが国家であり法である

ホップスは人間は人間にとって狼であった。→「万人の万人に対する戦い」 人間の攻撃性の抑制と 自然権の本質と法の機能を論じ


社会は人が元来持つ自然権を抑制しないと、人を傷つけあい 他人を隷属化するのだと思う

だから、あまりに自分のためという 個人主義に偏ると 法を無視し価値観が崩壊し 道徳感が消失するのである。


私が仕事を頑張れる理由はここにある、会社として収益は求める事が最大限の目的であるが、
 そのためには、まずはお客様がいなければならない、お客様が己の業務(サービス)を必用としその価値を見出さなければ、業務、サービス、商品はうれないのである、だからお客様のために仕事をするのです。
 そこに自らの能力とそこについてくる収益があるから、必死に頑張れるのである

 仕事は必ず 甲乙の契約が発生する、お互い主張する条件を調整しあって契約がなりたつのである

愛だってそうである 雌と雄が自分の生き方と暮らしの上の幸福を相互の保障をすることができて
 「あなたを愛している」とカミングアウトする資格がうまれ、「二人で幸せを築いていこう」と約束することができる。それが、自己の性の欲求を充たす為の互いの道具としている状態、それが、愛情だと勘違いする。現代の若者いや戦後の「自分のために」頑張れといいつつ、反戦。平和を押し付けられ、個人の人権最優先主義の法の考え方がこの日本に蔓延している事が、異常な状態であると考える。それが人権擁護主義、死刑反対、無防備 反戦など奇妙な言葉で支配する構図をつくるのである。

 スピノザは国家論のなかでこう述べている
「人々が無気力である故に平和であり,隷属のみを事とする国家は国家ではない」

まさに、人々が無気力である故に平和であり,隷属のみを事とする国家がこの日本なのではないだろうか

ヘミングウエイが描く老人や老兵も 孤高な男を描いているが、その孤高の背景は亡くした妻への愛、若者たちへの希望があって、一人の生き方を背中でみせようとする、不器用な男を描いている。
 決して自分のために好き好んで孤高でいるわけではない。

趣味だって、そうだ いくら一人でピアノを練習したって その練習をだれか一緒に暮らしている人にきいていてもらいたい、 子供達に喜んでもらいたい、だれかにへたくそと言ってもらいたいとどこかに期待があるから練習している、それがないとやはり虚しいのである

「自分のために」の延長線にはかならず誰かがあるべきなのです。愛する人 愛する家庭 愛する子供

愛する仕事仲間 愛する・・・と


だけどね 結局 み「自分のために」と教育されたから、まずみんな自分中心にかんがえる
決して廻の社会や自分の立ち居地などかんがえない おれは生まれてなんの役にたつのだろうなんて
だれもかんがえない。「楽しく生きていいや」と思い。子供には「自分のすきなように生きていけばそれでいいんだ」と言い放つ親、ただし、生き方は教えてくれない。

だれかのために、  やらなければならない事があるから 人は個性があるんじゃないかな