甘いかもしれんが―がんばれ論―壱
人生半生記近く生きてきても尚、難しく、時には憚れる言葉がある。
苦しんでいる人に「頑張れ」自分にたいして「頑張れ」
なんかつらいんですよ 人に声をかけるのも、自分で「頑張る」と誓う事も
語源的に有力な説の我を張るの動ラ五であるとして。
そんなに己を張って生きても衝突を生むし、張りすぎれば破綻すると思う
英語でいったら 「Do yore best」「besteffort」
ベストを尽くせ!というなら なにがいったいベストなんだろう
逆に これを日本語に変換すると「人事を尽くして天命を待つ」
になるのだろう。
一所懸命頑張ってきて、やること尽くしてる人に対して尚、頑張れ!
そりゃ酷な話ではないか?
「人事をつくして天命を待つ」なら
「Good Luck!」でいいじゃないか
運否天賦 で 果報は寝て待て
ということではないか
頑張って来た人に「頑張れ」はいえない
努力をしない人には「頑張れ」だ「Do yore best」って命令形でいいわけだ。
そう思いませんか?
―がんばれ論―弐
よくよく思い起こしてみると。
頑張れ=我を張る
ならば この関係は矛盾している
置き換えると
日常的に頑張れは「応援」の意で使われているが
「我を張る」は日常的に「我を張るのもいい加減にしなさい」「お前が我が強すぎるんだ」
自己の固執の抑制を示唆される場面に適用される
つまり 「頑張れ」という言葉は一定の局面において己だけに執着をし続けろと
いう事になるのではないか
一対一の勝負の局面において己を信じきらなければ負ける局面において、人事を尽くした事を出し尽くさなければ勝てない時に有効な言葉なのではないか?
しかし 目的がはっきりしない 「頑張れ」は
自己の執着力を増加させる作用を働かせる
ということは 頑張れを示唆された効果は「我慢」に発展していく
我慢の意は本来自分に執着することから起こる慢心を意味し、「高慢」「驕り」「自惚れ」である
よって
「我を張れ」=「我慢をしろ」
という事になる
つまり頑張れは執着の精神論
仏教的に執着はあまり良いことではなく
放下着の精神 自己を解き放し 己を自然の摂理の中に置く事が大事
とされているので、
「頑張れ」の作用は執着を増加させ我慢を強いて、最後には自己の破綻まで誘導する 非常に強い副作用を持っている劇薬だということだと
最近感じているのです