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脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説―

前野隆司,筑摩書房,2004年11月15日第1刷発行を読んで周辺知識を学習して思ったこと

受動意識仮説―の更なる副題は「ロボットの心の作り方」だそうです

終わりに アイ・ロボットへの想い入れがかいてありました。

さて、この本は発刊されてから、様々な議論があり、様々な課題が残っているので

専門的な事については、茂木健一郎とかに任せる事にします。

クオリアでもアハ体験でも議論してください

この本を読んで私が注目したのは
「1つの面白い実験結果がある。人が指を動かそうとするとき,脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と,筋肉を動かそうと指令する運動神経が,どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。結果は実に意外だった。筋肉を動かすための運動神経の指令は,心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し,それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。」

この実験の概要は以下の通りである

頭骸骨を切開した人の大脳・随意運動野に電極をつけて、ひとさしを指を曲げる運動に対する運動準備電位を計測した。
運動準備電位は、無意識に始まる運動の指令信号である。
行動(筋肉の収縮)は、意識されて動くのかどうか、を確認する実験ということになる。
?指を動かそうと「意図」する。
?指令が随意運動野に伝わる。
?無意識のスイッチがONになる。
?運動準備電位が発生する。
?指が動く
この順番に神経活動が起こると考えるのが普通である。

ところが結果は意外なものだった。
?無意識のスイッチがONになる。
?運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
?指を動かそうと「意図」する。
?指令が随意運動野に伝わる。
?指が動く(「意図」の0.2秒後)。
そんなバカな! と思うのは当然で、世界中の学者がみな驚いた。

これはどういう事なのかと考えてみると

「イチロウ」や優れたピアニストのようにスピードや即時の0・5秒以下の意思決定をする動きをする場合、
 意識が形勢される依然に鍛え抜かれた筋肉と意識を形成するまでに計算されている結果に基づいて筋肉が連動して動くという事だ。

 即ち、意識というのは単なる人間の誤謬、もっと言えば、後付の思い込みなのである。

私の大好きな劇画、子連れ狼の「毒流れ」で拝一刀を殺害しようと企てる阿部怪異が、一刀を昏睡状態に落としいれ
 
多勢の刺客に攻撃をさせる、しかし 一刀は昏睡でありながら、同田貫を自在に操り、全ての攻撃をかわし、刺客をしとめて行く、それでも昏睡状態、

其れを観た阿部怪異は恐れおののき、「恐ろしや・・話に聞いたことがある。。剣の手練には心気と肌気の二つの気ありと。。。その意識不覚たりとも、この二つの気は常に鋭く研ぎ澄まされ、不覚たらざしとも、心気にて殺気を捉え肌気にて迫り来る風を感じ、無意識にその剣は動き。。。これぞ一切が無の中の入神の技たりし。」

というシーンを思い出した。

本の本題とはかけ離れ、仏教の「無」というのは同いう事なのかを科学的に説明できるようになったんだなと思いました。
一休が最初に悟った洞山三頓の棒と言う公案の解が、「有漏地より、無漏地へ帰る一休(ひとやすみ)」の意味も理解できた 

脳の意識の形成が後手に回って、人間の心が無意識の体の動きを都合よく解釈して意識を形成するならば、心を無にして正しい体の動きを見につけなければならないという事だ

本能的な煩悩や性衝動などはやはり、心の鍛錬をして、体が其れを拒絶するようにしなければならない

難しい事である

脳の意識より正い動きができる体を作らなければならない、これは、本当に難しそうだ、僧侶や修験者の修行が
なぜあのように厳しいのかがわかった。


そしてもうひとつ、ピアノなど想定した理想の曲想を弾こうとするときは、脳でバーチャルな経験をさせることで
その筋肉は動くのである、

即ち、これがバーチャルイメージトレーニングなわけである。

脳の緻密な想像力が芸術を生み出し、イチロウのような選球眼が生み出されるわけである

やっぱり、霊長類というのは想像力と合理的に鍛えれた体が必用なのであるという事だ。

動物はこの誤解をする意識を作り出す、前頭葉が無いか、もしくは、小さいかなのであるから、無の心もしくは無に近い反射神経なのである 無視が払いのけようとする人間の手の動きを予測するように

人類が哲学や宗教観をもって何万年なんだろうがようやくその謎が解き明かされてきたようなきがします。

それにしても、流石、数千年続いている宗教においては心の仕組みなど科学などがわからなくても、理解していたと言うこの事実に感動しています。